「担い、背負い、救い出す」   02.03.03
                    イザヤ46:1〜13,ローマ10:5〜6

 <わたしに聞け>と呼びかけてくださる神さまは、<担い、背負い、救い出す>と宣言をして
くださいます。このみ言葉を抱えて、私たちは自分の生涯を進めることができます。
 この宣言は、にわかには信じがたい宣言です。自分が、神さまにふさわしくないことを知っているからです。かえって、見捨てられ、放り出されると言われる方が筋が通っている気がします。
 最初にこの宣言を聞かされたイスラエルの民も、信じられなかったことでしょう。
彼らは、戦いに敗れ、国が滅びたあとの惨めな残りの者でしかありませんでした。
しかもその滅びが、自分たちの罪に対する神の裁きの故であると聞かされて
いました。さらに、性懲りもなく、華やかな強国の偶像に心を引かれている民でした。神の恵みの業からほど遠いところに、自分たちで行ってしまったのです。
 にもかかわらず、神さまは、「救いをもたらし、輝きを与えることにした」とおっしゃるのです。それが、聖書の神さまです。筋を無視するかのようにして、ご自分の民を愛し抜かれるのが
神のお姿です。民への関わり方です。

 愛は、理屈や計算を超えて人に向けられます。人と人の愛でもそうです。
ましてや神の私たちに向けてくださる愛は、もっと深く、大きく、豊かです。
神からの恵みの宣言をしてもらえる理由を探すよりも、この宣言を喜び生きること
こそが、私たちにできる応答の姿です。

 <同じように>とおっしゃってくださいます(4節)。人は、生まれた時から老いるまでに様々に
変わります。肉体的にも、信仰的にもそうです。
成長したり、沈滞したりします。しかし、順調なときも、不調なときも、神は変わらないのです。民がどうであろうと、同じ愛を向け、同じ救いの決意を持って向き合ってくださる神であり
続けてくださいます。
時には、汗を流し、暴れる者を抱え込むようにして担ってくださる。
 この神に招き入れていただいたのが私たちです。